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1997/07/08-2007/12/07

ブラームス没後100年、分離派生誕100年

オットーワーグナーのデザイン建築 ヨーロッパにおける 分離派運動は 19世紀末にドイツに始まりました。

その頃は、その100年前の市民革命、さらに続く産業革命を経て、ヨーロッパでは王侯貴族の培った文化が過去のものとなり、一般市民階層の文化が主流となってました。美術は具象から抽象、音楽は調性音楽から無調性音楽という、いわば様式の過渡期の頃です。

ウィーンでは今からちょうど100年前1897年にに分離派が生まれてます。ドイツから始まった分離派運動が南下しイタリアに伝わった結果、今世紀初頭にはローマにも分離派が生まれますが、その間のことでした。

1897年というと、67才のフランツ・ヨゼフ皇帝は、翌年の皇后暗殺を夢にも考えず、矍鑠として王宮の執務室で毎日執務に励んでいたときです。

オスマントルコからウィーンを守った中世時代からの環状城壁は、皇帝の命により取り払われ、それに替わって出来た環状道路一帯の建築群は、王宮を残してほとんど全部完成してました。

また、頑として保守的な皇帝に対し、カール・ルエーガー市長が着々とウィーンに春風を吹き込み、そんな中で建築美術家オットー・ワーグナーが今が盛りとばかりに世に出てきた頃でもあります。

画家として歴史に名前を刻むことになる グスタフ・クリムトは弟エルンストを失い、それまでのいわば職人活動だった装飾画家から脱皮して有名な絵画作品を手がけ始めてます。

巷では J・シュトラウスのワルツが大流行し、プラター遊園地には 巨大な 大観覧車が作られました。

世界最高の演奏会場として名声が安定した 楽友協会ホールでは、同年没、同協会理事のブラームスの重厚な音楽が響き、前年没の神秘主義者のブルックナーの音楽としのぎをけずっていました。(ブラームスとブルックナーは仲が悪かったのか?==ブルックナーの葬式がカール教会で行われたとき、実に!ブラームスは人目を忍んで柱の影で涙を流していた==それを見た当人から話を聞いたという 現在年金生活の元楽友協会勤務だった男性の話!)

精神病理学の祖と言われるフロイトはウィーン大学医学部から離れて町医者となり、正にたった一人で大勢派に向かった頃。他方では、シュニッツラーが世紀末の病んだ心を見つめた頃。

2年後1899年にはアドルフ・ロースがデザインしたカフェ・ムゼウムが美術アカデミー界隈にオープンし、来たるべき20世紀を見つめた若い芸術家が集まって芸術談義に花を咲かせるようになります。

オーストリア・ハンガリー2重帝国の首都ウィーンは人口の拡大と共に外へ向かって拡張され、郊外ではオープンしてしばらくの中央墓地の整備が進んでいた頃。

世界的には、一次大戦の予兆には誰も気づかずに次から次へと同盟国の色分けがされていった頃。世の中が来るべき20世紀に向かい大きく渦巻いていた、そのとき、大帝国の帝都ウィーンは、正に世界中の文化の中心でした。

キュンストラーハウス

1897年のウィーンでは、それまで想像もできなかったほど新しい様式を生み出した芸術家達が、できたばかりのキュンストラーハウス(芸術家の館)での展覧会を拒絶され、アカデミーといわれる当時の保守的な勢力から分離して分離派を設立しました。

関連リンク:
google.at ⇒ secession(独)

その分離派は、哲学者として知られることになるヴィトゲンシュタインの父等の援助を得て、はやくも翌年には美術アカデミーの裏に立派な展覧会場/secessionをかまえることになります。そのデザインを担当した建築美術家は、オットー・ワーグナーの弟子でありながら、師にも影響を与え、後にドイツのダルムシュタットで大いに活躍することになる J・M・オルブリヒでした。

この、黄金のキャベツと言われた分離派美術館は、100年後の今でも斬新な洗練されたデザインで目を引く。正面扉の竪琴のレリーフは分離派の初代会長G・クリムトのデザインが取り入れられてます。扉のすぐ左の壁面には ユーゲントシュティールの金色の文字で、分離派機関誌の題名 「VER SACRUM・聖なる春」の文字が刻まれ、さらに入り口のすぐ上には、やはり金色で「DER ZEIT IHRE KUNST・DER KUNST IHRE FREIHEIT、時には芸術を・芸術には自由を」 という分離派のうたい文句が掲げられました。

いよいよ20世紀への突入です。

高崎守弘