ウィーンのクリスマス
毎年クリスマスが近付くと、通りにクリスマスの飾り付けがされ、様々なクリスマス市が開かれ、街角でクリスマスツリー用のモミの木が売られます。普段は財布のひもが堅いウィーンの人たちも、この時期だけはクリスマスプレゼントの買い物に追われます。
- 関連項目:
- きよしこの夜
アドヴェント/降臨節(待降節)
アドべントは日本語で降臨節とか待降節と呼ばれ、救いの御子イエスキリストの生誕を待つ喜ばしい時期と考えられてます。アドベントの期間はクリスマスの4週間前の日曜日から、イエス生誕を祝うクリスマスまでです。日曜日を迎えるごとに、救世主の降誕を祝って、アドヴェントクランツ(日)という針葉樹の枝で作った輪に立てられたロウソクに火を灯します。最初の日曜は4本中の1本のみ。次の日曜日は2本、その次の日曜日には3本、最後の日曜日には4本全てのロウソクに火を灯し、クリスマスを迎えます。アドベント期間中はアドベントカレンダーの小さな窓を順に開けて行き、「もういくつ寝るとークリスマス〜♪」って感じでしょうか。
ウィーンの様々なクリスマス市
ウィーン市内で一番華やかで有名なクリスマス市は、 何と言っても市庁舎前のクリスマス市(独/英)です。その他、必ず観光客の目にとまるのがシェーンブルン宮殿のクリスマス市(独/英)。旧市街地の フライウンク広場のクリスマス市(独)も悪くはないでしょう。
これらのクリスマス市には、クリスマスの飾りやクリスマスプレゼントを売る屋台がたくさん並びます。クリスマスツリーの飾り、手袋やマフラー屋、プンシュやグリューワインなどの暖かい飲み物の屋台、そして焼き栗屋等々です。
オーストリアの約9割がカトリック
カトリックはキリスト教の一宗派です。フン族がウィーンから東に広がる平野地帯に来た20年後、395年に古代ローマ帝国が東西に分かれます。東ローマ帝国(375-1453)のキリスト教をオーソドックス/正教、西ローマ帝国(-476)のキリスト教は後にカトリック/普遍的と呼ぶようになったそうです。このカトリックは総本山がローマにあるため、ローマカトリックとも呼ばれます。
カトリックは、後に免罪符などの問題でカトリックにプロテスト/抗議したマルチン・ルター/Martin Luther(1483-1546)がプロテスタントと言われる新教の基礎を置いたことから、その新教に対して旧教とも呼ばれてます。
ところで、カトリックでは本当にクリスマスツリーを飾らなかったのでしょうか? ガイド学校の授業ではハプスブルクに嫁いだカール大公(皇帝フランツの弟、英雄広場の騎馬像)のお嫁さんが新教だったため、ウィーンに初めてクリスマスツリーをもたらしたとか。
オーストリアの歴史とカトリック
オーストリアの民族は、ヨーロッパの他の国々と同じく、6−7世紀頃の民族移動終わり頃に、バイエルン族(ババリア)が南ドイツとオーストリアに定住するようになったそうです。それ以来オーストリアはドイツ語圏になったとされてます。
オーストリアの東に位置するウィーンは、古代ローマ時代以後、アジア民族が度々流入したために、アジア民族とヨーロッパ民族の所有がその都度入れ替わりました。
中世初期の頃は、ウィーンの西約200km、ドナウ川の支流エンス川あたりまでアジア勢力圏だったようです。8世紀終わりに有名なカール大帝が、馬の鐙をヨーロッパに伝えたとされるアバール族をハンガリーの方まで追いやり、東の辺境地(オーストマルク)を置きますが、しはらくすると、今度はアジア民族のマジャール(ハンガリー)族が入ってきます。
マジャール族は当時のヨーロッパでは無敵だったらしく、遠くはフランス、パリを経て、ピレネー山脈まで迫り、北はオランダ、南はイタリアまで足を伸ばしてます。軽快な騎兵を駆使してヨーロッパ中を蹂躙し、パリのシテ島がマジャール族に攻められた記録が残るのは興味深い話です。
その後、無敵と言われたマジャール族の騎兵も、レヒフェルト(995)の戦いでオットー大帝の装甲騎兵に敗れます。さらに、オーストリアの礎を築いたバーベンベルク家に圧迫され、現在のハンガリーまで後退します。ウィーンは、それ以降ゲルマン民族カトリックの地として発展を続け現在に至ってます。その間、ハンガリーは1000年前に初代の王イシュトヴァンにより民族が統一され、キリスト教(カトリック)が国教となってます。
面倒な歴史の話はさておき、アドヴェントの時期にウィーンに居たら、何はともあれクリスマス市に行きましょう。特に夜の市庁舎前クリスマス市はとても華やかです。しっかりとした防寒、荷物を持たず両手を空け、スリに留意し懐中物に気を配ります。寒いときは屋台のホットワインや、リンク通りを渡ったところのカフェーラントマンで休憩も良いでしょう。良いクリスマスを! Froehliche Weihnachten !